2011.01.08
余白の美学
デザインをする上で、極めて重要な要素のひとつに余白がある。
ひとつのキャンパスの中で、情報と情報を無地の空間で区切る余白は、全体のイメージをも左右する重要な役割を担っている。
この余白の取り方次第で、美しさや情報の見やすさ、印象などが大きく変わる訳で、できるデザイナーはことさら余白に気を使うものである。
存在感のない無地の空間が、なぜそれほどまでに影響力を及ぼすかといえば、黄金比に代表されるような「人間が美しいと認識する形状の比率」によるところが大きいと考えられる。
つまり余白は、情報の形を黄金比に導くための役割をひっそりと担っているのだ。
この考え方は、デザインだけに言えることではなく、コミュニケーションなどにも当てはまるのではないかと感じる。
例えば、人前でプレゼンテーションを行うとき、多くの人は発言の合間に「あ~」とか「え~」などという無意味な音声で言葉をつなごうとする。この間、大抵の人は次の言葉を探している訳だが、お世辞にも美しいとは言えない。
それならば、無音の「余白」で発言にリズムを持たせる方が聞き取りやすく、同時に次の言葉に重みを加えることにもなる。もちろん、余白が長すぎたり余白が多すぎるのは逆効果であり、聞きとりやすい言葉のリズムにも黄金比のようなものが存在すると感じる。
以前こんな話を聞いたことがある。ラジオのパーソナリティである浜村淳は、数時間のラジオ番組の中で話す内容を、見事に3分に区切って展開しているのだそうだ。それが一番聞きやすい区切りの単位らしい。テレビのドラマなどでも、1時間の中で事件や話の転換が起こるベストな時間帯や回数があるという。
そんなことを考えていたら、はたと「人生に余白があるとすればそれは何だろうか?」と思考が立ち止まってしまった。
少々頭をひねった結果、「一期一会」という言葉にたどり着いた。
人は日々、出会いと別れを繰り返している。
一人の時間を余白とするならば、その時間の過ごし方が次の出会いを豊かにし、不幸にもすると言えるのではないだろうか?
多すぎず、少なすぎず、濃すぎず、薄すぎず。
適切な余白を過ごせる人は、人生もそれ相応に輝いているような気がしてならない。