努力は天才を超えるか? Part2

以前のコラムで「努力は天才を超えない」ということについて持論を述べた。努力は万能ではないので、自分の強みを活かした実る努力をしなければならないという趣旨である。現実社会では、実る努力もあれば、残念ながら実らない努力もある。そんな中でも私が体験した努力の成果について書き留めておきたい。

1)努力の継続は様々な能力を育てる
中学高校の6年間、人里離れた山の中で野球だけに明け暮れた私は多くの能力を身につけた。「忍耐力」「粘り強さ」「肯定思考」「習慣化」など、数え上げればキリがないほど成長することができた。そしてそれらの能力が、経営者としての精神を支えている。

何かに没頭し、突き詰めた人だからこそたどり着ける境地がある。努力を通じて手にした能力はあらゆる場面で自らを助け、決して自らを裏切らない。

2)手放す勇気と強さが人生を好転させる
たとえ好きな事とはいえ、それを継続するのは並大抵ではない。そうして突き詰めてきた何かも、いつかは手放さなければならない時が来る。自らモチベーションの源泉を断ち切るには勇気と強さがいる。努力によって身につけたものを捨て、新しいステップに進むことによって、皮肉にもその努力が好転を始める。

ピータードラッカーは、「不採算事業を撤退すると決断した瞬間に、そこで培ったノウハウが別の事業に好影響を与え有意義なものに変化する」と言っているが、人間も個人もまったく一緒なのである。

3)努力なき所に真の自立はない
人が実社会において最初に目指すべきものは自立である。どんな人も親の加護を離れ、たとえ一人になっても社会生活を営んでいける自立した大人に成長を遂げなくてはならない。そこにたどり着くまでには、幾多の壁を越える必要がある。

「壁」とは、今の自分では素通りすることができない事象であり、「努力」とはその壁を超える術を学び実行できる実力を身に着けるまでの過程である。そうして、昨日できなかったことが今日できるようになること、今日できなかったことが明日できるようになることを「成長」という。努力は人を成長させ、自立した大人にする。

「努力は天才を超えない」。わたしにとって興味が尽きないテーマである。


努力は天才を超えるか? Part1

「努力に勝る天才なし」という格言がある。人生における努力の重要性はあえて語る必要もないほど多くの人に浸透している。しかし、「努力は天才を超えるか?」という問いに迷いなく「超える」と答える事ができるだろうか?私はこの問いに対して明確に「超えない」と答える。こんな事を言うとすぐに努力否定論者のように扱われ、努力信奉者から一斉攻撃を浴びることになる。

私は高校時代、野球の名門と言われた明徳義塾高校で甲子園を目指し、日夜厳しい練習に励んでいた。100名を超える部員の中にあって、レギュラーになれるのはほんの一握り、ベンチ入りでさえそう簡単ではない。その中にあって、他人と同じ事をしていては絶対に追いつけないと早朝、夜間の自主トレーニングを365日1日も欠かさず続けた結果、何とかベンチに入ることができた。その時の喜びは今も忘れられない。

しかし誰よりも努力をしたと自負する私と同じポジションに、甲子園で2本の本塁打を放ちヤクルトに入団した同級生がいたのだ。近づくどころか別次元の実力を目の当たりにし、自分の才能の無さに直面したのである。そんな彼も7年間のプロ野球生活で1軍昇格は1度だけ。現在は引退しプロ野球の審判として活躍している。

私なりにやりきった感はあったが、身近にいた非凡な友人でさえ遠く及ばない実力を持つ一流選手、その中でもトップクラスの実績を出すプレーヤーを天才と呼んでも差し支えないだろう。もちろんそうした選手の多くは、やはり多くの努力をしているだろう。才能ある人間が、努力をすることで初めて天才へと昇華する。

これが、努力は天才を超えないという根拠である。これを聞くと多くの人が「努力は別の所で役に立つ」「その過程で人間が大きくなる」「体験が人を育てる」と言った反駁をするのだが、それは議論のすり替えである。「努力は天才を超える」と論破できる人はこれまで誰一人としていなかった。

私は「努力は天才を超えない」という言葉には強烈な教訓があると思っている。それは、どうせするなら実る努力をしなければならないという事である。

努力は万能ではない。同時に、自らの強みや特徴に即した努力は、飛躍的に人を成長させる。そしてそのような「天職」に巡りあうこともまた才能なのかもしれない。


24時間戦えますか?

「24時間戦えますか?」。ご存知の方も多いであろうこのフレーズは1990年代前後に放送された栄養ドリンク「Regain(リゲイン)」のCMソングの一節である。バブル経済絶頂の頃、世界で活躍するビジネスパーソンの応援歌として大いに取りざたされた。このコピーは決してネガティブなイメージではなく、逆に誇らしいと言えるほどの熱気があった。まさに時代の一幕を表した名コピーである。

しかし現在では、このようなコピーがマスメディアで使用されることはまずないだろう。ブラック企業なる言葉が生まれ、社会に対してのみならず、社内環境においても厳しくコンプライアンスが求められる現代において、「24時間働きますか?」などというコピーが許されるはずもない。

過去、日本の終身雇用をベースとした大家族主義は世界でも賞賛された経営のあり方だった。会社は経済成長の名のもとに定期昇給、終身雇用を担保し、従業員はその成長のために働き成果を上げ続けてきた。大手に至っては企業年金で老後の面倒まで見ると言うのだから、お互いが信頼関係で結ばれるに至る十分なシステムがあった。

しかしそれらの良さはバブル崩壊によってキレイさっぱり失われ、ただの過労働のみが残ったのが現在の企業の姿のように思えてならない。日本は猛烈に働くことで世界2位の経済大国にのし上がり、その結果生まれた圧倒的な生産性の低さによって世界から取り残されようとしている。

ではどうすれば日本は再び世界の中でリーダーシップを発揮できる存在になり得るのだろうか?それは価値観の変容によってしかなされないだろう。

まず初めにしなければならないのは「経済大国」という誤ったレッテルを直ちにひっぺがし、「資源の乏しい小国」であるという認識を持つべきである。日本が置かれている状況は極めて劣性である。過去の成功体験を直ちに捨て、弱者である現状を強く認識しなければならない。

次に、成功の定義を大きく塗り替えることである。経済成長やGDPなどに惑わされてはならない。日本という国が再び世界で尊敬される存在となるために、豊かさを量ではなく質によってはかる独自の指標を世界に打ち出すことである。その指標こそが目標となり、明日への活力を生むのではないだろうか?

とは言え、経営者は政治家ではない。自らの会社を少しでも理想に近づけ祖国に貢献しなければならない。再び誇らしいと思える名コピーが誕生するのを楽しみにしながら、日々の経営に精進することとしよう。


四十にして惑わず。

2013年4月30日、めでたく40歳となりました。23歳で個人商店として独立し、経営者として早17年目を迎えました。

私たちを信頼してお仕事を任せて頂いたお客さま、足らない自分をいつも助けてくれた信頼できるスタッフ、様々な気付きを与えてくれた恩師や諸先輩方、勇気や元気を与えてくれたたくさんの学びの友、本当に多くの方々のご支援のお陰で今の自分があると思います。本当にありがとうございます。

ここに至るまで本当に色々な事がありましたが、振り返ってみるとほんの一瞬の出来事だったのかと感じるくらいあっという間の17年間でした。

人の事で悩み、お金の事で悩み、何度となく訪れた倒産の危機を必死で乗り切って、勘違いして遊び呆け・・・、また立ち直って勉強して、新しい会社作って、また危機に遭遇し、立ち直って・・・。

まさに失敗に失敗を重ね、多くの事を経験し現在の自分と自社があります。この何物にも代え難い経験とそこから学んだ多くの事を、そろそろ人のお役に立つことに使わなければと感じています。

私がグイグイ引っ張れる年を50歳、そこから15年間を後継者の育成と考えると、残された時間が思いのほか少ないことに改めて気づかされます。

この10年は自らの限界に挑戦する時とし、新しい商品、サービス、事業の創出に全精力を傾ける覚悟です。そこで生まれた結果が私の残りの生き方を決める、もっと言えば、過去の自分もひっくるめた人生そのものの価値を決める10年になると思います。

「過去」の延長線上に「今」があり、「今」の延長線上に「未来」がある。

この日、この時を新たなスタートラインとして未来の自分を創っていきます。

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子の曰く、吾れ
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

私は十五歳で学問を志し、
三十になって自分の基礎を確立した。
四十になってあれこれ迷うことがなくなり、
五十になって己の成すべきことを知るに至る。
六十になって素直に人の話が聞けるようになり、
七十になると思うがままにふるまっても、道を外すことがなくなった。
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余白の美学

デザインをする上で、極めて重要な要素のひとつに余白がある。

ひとつのキャンパスの中で、情報と情報を無地の空間で区切る余白は、全体のイメージをも左右する重要な役割を担っている。

この余白の取り方次第で、美しさや情報の見やすさ、印象などが大きく変わる訳で、できるデザイナーはことさら余白に気を使うものである。

存在感のない無地の空間が、なぜそれほどまでに影響力を及ぼすかといえば、黄金比に代表されるような「人間が美しいと認識する形状の比率」によるところが大きいと考えられる。

つまり余白は、情報の形を黄金比に導くための役割をひっそりと担っているのだ。


この考え方は、デザインだけに言えることではなく、コミュニケーションなどにも当てはまるのではないかと感じる。

例えば、人前でプレゼンテーションを行うとき、多くの人は発言の合間に「あ~」とか「え~」などという無意味な音声で言葉をつなごうとする。この間、大抵の人は次の言葉を探している訳だが、お世辞にも美しいとは言えない。

それならば、無音の「余白」で発言にリズムを持たせる方が聞き取りやすく、同時に次の言葉に重みを加えることにもなる。もちろん、余白が長すぎたり余白が多すぎるのは逆効果であり、聞きとりやすい言葉のリズムにも黄金比のようなものが存在すると感じる。


以前こんな話を聞いたことがある。ラジオのパーソナリティである浜村淳は、数時間のラジオ番組の中で話す内容を、見事に3分に区切って展開しているのだそうだ。それが一番聞きやすい区切りの単位らしい。テレビのドラマなどでも、1時間の中で事件や話の転換が起こるベストな時間帯や回数があるという。



そんなことを考えていたら、はたと「人生に余白があるとすればそれは何だろうか?」と思考が立ち止まってしまった。

少々頭をひねった結果、「一期一会」という言葉にたどり着いた。

人は日々、出会いと別れを繰り返している。

一人の時間を余白とするならば、その時間の過ごし方が次の出会いを豊かにし、不幸にもすると言えるのではないだろうか?

多すぎず、少なすぎず、濃すぎず、薄すぎず。

適切な余白を過ごせる人は、人生もそれ相応に輝いているような気がしてならない。